羅漢寺
     suc4-c01  2006/4/30

中津市本耶馬渓町の羅漢寺を訪れた。

耶馬渓羅漢寺畧縁起(羅漢寺参拝記念より転記)

 当寺は六百四十五年 孝徳天皇の大化元年にイン
ドより法道仙人が渡来され、地形が釈迦牟尼仏の聖
跡耆闍崛山を彷彿させるところに感じ、久しく、こ
の洞中に留まられました。
去るに当って念持仏として奉持された金銅仏一躰を
残されたのが当寺の始めと伝えられます。後、平安
時代には山岳仏教の霊地として天台宗の時期もあっ
た様です。
一三三七年、御醍醐天皇の延元二年、臨済宗祖栄西
禅師四代の仏孫円龕照覚禅師が十六羅漢、五百羅漢
の石像を安置し羅漢寺を開かれました。以来臨済宗
二十六代を経て、一六〇〇年慶長五年に長州深川大
寧寺より鉄村玄策禅師が入山され曹洞宗に改まって
から現住職まで二十七代であります。
江戸時代は東照宮をまつり、徳川家より百石を給さ
れ、三葉葵の紋章と十万石の格式を許され、毎年正
月、全九州大名の城代家老が参集する日田代官所で


の年賀式では最上席であったとされています。
又曹洞二代伝室玄宅禅師は細川三済公に招されて熊
本に行き、水前寺の開山になっておられます。
当寺大開基は、足利義満公中興大開基は細川忠興公
(三済)なお現本堂は昭和十八年類焼に会ったため、
昭和四十四年に再興しました。

ただただ羅漢寺を目指す。
我が家から約2時間ほどで本耶馬渓町の羅
漢寺駐車場へ到着する。

先ずは、楽を選んでリフトに乗って5分ほ
どで羅漢寺へ到着した。

角閃安山岩と凝灰岩の耆山(標高250m)
の南斜面の中腹に羅漢寺があった。

記憶をたどれば、長男が幼稚園くらいの時
に父母を同行してお参りに来た。
当時の詳細な記憶は殆どない。

早速寺へと上ることにしたが、少々お疲れ
モードの私がリフトを選んだ。
これが後々の後悔に通じることになる。

降り立って少し上ると、山門下の千体地蔵
尊を左手に見る場所へとでる。
右手は歩いて上り来る急な石段の山道があ
った。



五百羅漢
延文4年(1359年)逆流建順という僧がこの
地を訪れ、昭覚禅師とともにわずか1年で700余体
の石像物を建造しました。羅漢とは釈迦の高弟(位の
高い弟子)のことで、それぞれに名前があります。そ
の第1の高弟に位置付けられているのがビンヅル(ビ
ンドラバラダージャ)で、五百羅漢が安置されている
無漏窟の外に座っています。これは、ビンヅルがあま
りにも明晰で、釈迦の考えていることが全てわかるた
め、釈迦から敬遠され、外に出されたからだといわれ
ています。
本耶馬渓町 羅漢護寺会
千体地蔵
千体地蔵の岩窟をのぞき込んで眺めていると
なんだか妙な気分になってくる。
すさまじい数の石の仏が頭を並べている。
これだけの数の地蔵さんを一体どれだけのエ
ネルギーを費やして彫ったのだろうかと考え
てしまう。
まあ、万里の長城の焼き煉瓦や西安の兵馬俑
からすればそのエネルギーもはかれ無いこと
もないのだが・・・・
山岳密教を信じてひたすらノミの頭を玄翁で
たたき続けたのであろう。




五百羅漢のある窟に入るとその広さに驚く。
自然にあった窟を利用したものだろうか?

その奥にずらりと並んだ羅漢さんを見ていると、
なんだか誰かに似ていると言われるが、まさにそ
の通りである。私の祖父似の羅漢さんも奥の方に
いたような・・

ここは、罪や悩みを救うとされるしゃもじに願い
事を書いて小さな釘で柱や格子に打ち付ける。
私も、家内安全を願って小さなしゃもじを一つい
ただいて打ち付けた。
少々どん欲な高さが1mをこすような大きなしゃ
もじもあり、なかなか粋な願いを書いたしゃもじ
もある。・・・私の願いもすくっていただければ
いいのだが・・お願いします。

お寺の裏をめぐるコースと庭園を観賞して、さらに山頂の散策まで楽しんで、ロープリフトで
下りました。
これが最初に書いた大失敗なんです。
じつは、途中に仁王門があって、その中にすばらしい仁王さんがおられたんですが、それに気
づかず帰路につきました。・・・5月3日に仁王さんに会いに行きました。
おっと、忘れてはいけないことがもう一つ・・・
歩き疲れて下山した私たちに美味しいお茶をごちそうしていただいた松風堂のおばさん。
ごちそうさまでした。